3-28礼拝

2020年3月28日

勝利の歌

柳鐘鉉 牧師

 

主の聖なる御名を賛美します。皆様のご家庭の上に、神様の溢れるばかりの祝福と恵みが注がれることを祈ります。新型コロナで全世界が今大変でありますけれども、このような時であっても私たちクリスチャンは喜びと賛美の礼拝を主に捧げなければなりません。この世の中で起きてくる問題は全て神様が知っておられますし、神の許しなしでは起きてくるものは何一つないからであります。

この時こそ、私たちはひざまずき、主に祈り求めなければならないとそう思います。皆様一人一人の健康と信仰が主にあって守られようにと願います。

今朝、私は旧約聖書イザヤ書26章1節から4節までの短いみ言葉を通して、神様が私たちにおっしゃって下さった、約束して下さった素晴らしい約束に、目も心も向けていきたいと思います。

説教題を「勝利の歌」と、つけさせていただきました。イザヤ書26章1節から4節までのみ言葉の中に2つの大切なメッセージがあります。

1つは、勝利をうたうその時はくる。という事です。2つ目は、誰がその勝利の歌をうたえるのか?その勝利の歌をうたう人は誰なのか?ということについて語らせていただきます。

私の祈りは、ここに集まっている皆様一人一人がすべて、その日に勝利の歌をうたい小羊であられるイエス様と共に勝利の歌をうたえることであります。

それではイザヤ書26章1節、2節のみ言葉を共に読んでみたいと思います。私は口語訳聖書をもっておりますので口語訳聖書を用いてお読み致します。皆様も皆様が持っておられる聖書を用いてイザヤ書26章1節、2節を読んでください。はい、どうぞ。

 

26:1「その日ユダの国で、この歌をうたう。「われわれは堅固な町をもつ。主は救いをその石がきとし、またとりでとされる。」

26:2「門を開いて、信仰を守る正しい国民をいれよ。」アーメン

 

2000年前に、主イエス・キリストは大きな声で、神の国が近づいたと宣言なさいました。その神の国は主イエス・キリストの十字架の尊い死によって実現され、現れたのであります。私たちは主のもの、主の命の代価が支払われて買い取られた主のものです。主はご自分を救い主として信じる者に、永遠の国を約束して下さいました。そしてそのようなものだけが、神の用意された永遠の国へ入る事ができるのであります。

2000年前に、神の永遠の国を宣言された方がヨハネ14章で次のような言葉を書き残して下さいました。スクリーンには書いてありませんけども、皆様の聖書を開いてください。ヨハネの福音書14章1節から3節までを読んでみたいと思います。主イエス・キリストはその弟子たちにまた私たちにこのような素晴らしい約束を残して下さいました。14章1節から3節をお読みいたします。

 

14:1「あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい。」14:2「わたしの父の家には、すまいがたくさんある。もしなかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。」

14:3「そして行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである。」アーメン

 

2000年前に約束されたこのイエス様のこの言葉がまさに今、私たちの世代に成就されようとしています。まもなくイエスキリストは数万、数千の天使を率いて栄光につつまれて、帰って来られます。

ダニエル書を私たちは学んでおりますけれども、ダニエル書2章を読んでみますと、神様はバビロンの王ネブカデネザル王様にこの歴史に関するその夢を与えて下さいました。ネブカデネザル王様は巨大な像をみたのであります。ダニエルはその巨大な像が、意味するものが何か。表している物が何かを説明してあげました。その巨大な像はこの世界歴史を、イエス様が再臨なさるまでのこの世の歴史を語っているものであったわけであります。そのダニエル書2章のあの巨大な像からみて私たちは今、どこの部分に住んでいるんでしょうか?足指先の所に私たちは生かされています。次に来る世界は石の国でありますけれども、この石の国はイエス様の再臨によって実現なさる本当の神の国であります。私たちは幸いにも生きてイエス様のご再臨を迎えなければならない、その様な世代であります。確実にその様な確率が高くなってまいりました。しかし、イエス様のご再臨の前には様々な事が起こると預言されています。エレンジー・ホワイトは150年前に次のような言葉を書き残して下さいました。

「各時代の大争闘 第36章P.352」に、次のように書かれています。皆様の瞑想の言葉にも書かせていただきました。それをご一緒に読んでみたいと思います。はい、どうぞ。

 

サタンは人々に対し、あらゆる病気を癒すことのできる偉大な医師のように見せかけながら、他方では病気や災害を生じさせ、ついには人口の多い都市が破滅して荒廃する。彼は今も活動している。海や陸における事故や災害、大火災、激しい突風、凄まじい降雹、あらし、洪水、竜巻、津波、地震など、あらゆる場所に幾多の形でサタンは力を振るっている。彼は取り入れまぎわの収穫を全滅させ、飢饉と困窮を引き起こす。彼は空気を恐るべき病毒で汚染させ、幾千人もの人が悪疫で死ぬ。これらの出来事はますます頻繁になり、悲惨なものになる。破滅は人間にも、動物にもおよぶ。「各時代の大争闘(第36章、p。352)」

 

150年前にエレンジー・ホワイトは、この世の終わりの時代を見すえてこのような預言をしてくださいました。100%この預言は大当たりです。イタリアでは8000人を超える死者が出ました。そしてその数は益々増えていくと思います。米国の科学誌である「原子力科学者会報(BAS)」というものがありますけれども、3月23日地球滅亡までの時間を示す「終末時計」の針が2018年ではですね2分だったんですけれども、一昨年より20秒進んで残り100秒となることを発表しました。これは1947年の開始以降最も「終末」に近づいたと発表したものであります。

聖書を知らない、聖書を信じない。神を知らない方々、無神論者の方々も客観的なデータを基にして、この地球の寿命をはかります。このままでいくとこの地球はもう人が住めない様なそのようなものになってしまいます。これからは、益々困難な時代になるとそう思います。それは私が思うのではなくて素直に預言されています。しかし、私たちクリスチャンは希望があります。そして我々が知っているものは神様のみ言葉であります。み言葉はこの世の終わりをどう語っているのか?どう告げているのか?ということが大切だと思います。それはマタイの福音書24章14節に書いてある通りであります。そしてこのみ国の福音は全ての民に対して証をするために全世界に宣べ伝えられるであろう。そしてそれから最後が来るのである。イエスキリストはマタイの24章で、この世の終わりについて語っておられました。マタイの24章をみますと、世の終わりのしるし、証拠がですね12書かれています。その中でマタイの24章14節。これが最も確実なこの世の終わりであると、そう聖書には書かれております。それは、自然災害や飢饉や色んなものによって、戦争によって、この世が終わるのではなくて、この福音が地の果てまで全世界へ宣べ伝えられてから終わりが来るということであります。つまり、イエス様の再臨を早めるのは私たち一人一人、この教会にかかっています。私たちはこの世の終わりの時代にあって三天使のメッセージを、三天使の使命を、命の言葉を多くの方々に宣べ伝えていくために、神に選ばれた神の民であります。その日は確実にきます。イザヤ書26章1節、2節をもう一度読んでみたいと思います。  

 

「その日ユダの国で、この歌をうたう「われわれは堅固な町をもつ。主は救いをその石がきとし、またとりでとされる。門を開いて、信仰を守る正しい国民をいれよ。」

 

その日と書いてあります。イザヤ書26章までの聖書を読みますと、そこには様々なメッセージが、書かれていました。イスラエルに対する警告のメッセージもありながら、イスラエル周辺の国々に対する警告なメッセージが書かれていました。モアブ、アンモン、バビロン、イスラエルもそうです。ユダもそうです。神様から離れて自分の欲望のままに歩んでいる者に対する神様の裁きのメッセージが記されていました。そして、そのようなメッセージを神様はイザヤ預言者を語りながらイザヤ書26章においては、その時、その日あなた方は勝利の歌をうたうと約束されているのであります。私たちが確実に勝利の歌をうたうその日が近づいています。そのことをですね私たちはイザヤ書26章の約束の言葉より確認するこができます。しかし、もっと大切な問題が残されています。私たちは神様が再臨なさるその時に小羊であられるイエス様と共に勝利の歌をうたうわけでありますけれども、誰がそのシオンの山に立てるか?誰がイエス様と共に勝利の歌をうたえるか?ということであります。イザヤ書26章3節、4節のみ言葉を共に読んでみたいと思います。はい、どうぞ。  

 

「あなたは全き平安をもってこころざしの堅固なものを守られる。彼はあなたに信頼しているからである。とこしえに主に信頼せよ、主なる神はとこしえの岩だからである。」

 

いったい誰が勝利の歌をうたえるんでしょうか。誰が神様の用意された永遠のみ国へ入ることができるでしょうか。イザヤ書26章3節、4節をみますと、主に信頼している者と書いてあります。しかもその信頼というものは、短期間の信頼ではなくてとこしえに主に信頼せよ。かわらない信頼であります。かわらない信頼というものは、いつ、どこでその信頼が試されていくのでしょうか?平和な時ではなくて困難な時であります。迫害の時に自分がいかに神に信頼しているか?それが分かってくるのであります。今、まさに私たちはその時期に入っていると思います。

 エレンジー・ホワイトは、ふるいの時期が来ると、ふるいに掛けられるその時期が来ると言っています。私たちはいかに神に信頼し神のことを信じていると言うことは必ず試されますし必ず試みられます。この世の中には70億人以上の人が生きています。しかし、二つのグループに分けるならば私は次のようなグループに分けるのではないかと思うのです。神の声に聞き従って生きる人とそうではない人です。神様の声に聞き従って生きる人とそうではない人とに分けられるのではないかと思います。ヨハネによる福音書10章には羊のことが好きな二つのタイプの羊飼いが紹介されています。この二つのタイプの羊飼いは二つとも羊のことが好きです。しかし、その目的と動機は全然違います。ヨハネに福音書10章11節から14節のみ言葉をともに読んでみたいと思います。はい、どうぞ。

 

10:11「わたしはよい羊飼である。よい羊飼は、羊のために命を捨てる。」

 10:12「羊飼ではなく、羊が自分のものでもない雇人は、おおかみが来るのを見ると、羊をすてて逃げ去る。そして、おおかみは羊を奪い、また追い散らす。 」

10:13「彼は雇人であって、羊のことを心にかけていないからである。」

 10:14「わたしはよい羊飼であって、わたしの羊を知り、わたしの羊はまた、わたしを知っている。」

 

 ここに二つのタイプの羊飼いが出てきます。一人は良い羊飼いであります。この良い羊飼いの特徴は何でしょうか。羊を愛し、羊を危険から守り、時には羊のためにご自分の命すら惜しまないで犠牲する羊飼いです。他のところには99匹の羊を安全な場所において見失われている一匹の羊を探し出す、出ていく羊飼いの姿が書かれています。イエスキリストは良い羊飼いとして聖書に書かれています。実際、イエス様はご自分の命を捨てて私たちを罪から救ってくださいました。しかし、悪い羊飼いもいるわけであります。悪い羊飼いは、どんな特徴がありますか。羊を狙って羊を食べに来るオオカミやクマなどが来ましたら、逃げていく羊飼いであります。自分の身の安全を先に考えてしまいます。羊がどうなっても構いません。逃げていきます。そして10章14節には次のような言葉が書かれています。

 

「私は良い羊飼いであって私の羊を知り、私の羊はまた私を知っている。」

 

つまり、羊たちはその羊飼いの声を覚えています、知っています。羊飼いも自分の羊の声を知っているわけです。お互いに知り合う関係であります。ここで皆様にお聞きしたいと思いますけども、どっちが大切なんでしょうか?私は神を知っている。これが大切なのか、神様が自分のことを知っておられることが大切なのか。手を挙げてもらいたいと思います。私が神のことを知っていることが大切だと思っている方は手を挙げてくださいませんか?というか私の方が神のことを知っているとこれが大切だ。何人か手が挙がりましたね。それよりも神様が自分のことを知っておられるということが大切なのか、これが大切だという方は手を挙げていただけませんか。圧倒的に多いですね。あるいは、両方大切だと言う方手を挙げていただけませんか。両方大切ですよね。自分が神のことを知っているし、神様も自分のことを知っておられる。

二つあえて選びなさいと、二つの中で一つを選びなさいと言われたら、私は神様が自分のことを知っておられることが大切なのではないかと思います。律法学者やパリサイ派の人々は自分は、自分たちは神様のことを知っていると思っていました。聖書を通して什一を捧げることによって、宗教活動を通して自分は神様のことを知っていると確信していたんです。しかし、神様はなんとおっしゃいました?私はあなたのことを知らないよと。マタイ書の7章に書かれています。主のみ心を行うものだけ私は知る。主のみ心を行わないあなた方々のことは私は知らない。私は神様のことを知っているつもりでありましたけれども、神様は自分のことを知ってくださらない。これはとっても悲しいいことではないでしょうか。神様は自分のことを知っておられるそれを私は良く分かるとお互いに知り合うその関係であります。良い羊飼いと羊の関係はお互いの声を知り合う関係です。

皆様は自分が信じている神様のことを知っておられますか?皆様は、皆様のために死んでくださいましたイエス様のことを知っておられますか?どれだけ親密に、どれだけ密接に、どれだけ親しくしておられますか?互いに知り合うためには共に時間を過ごさなければいけません。いかにともに時間を使うかによって、時間を過ごすかによって、知り合うという程度は高くなります。例えば私もこないだ結婚記念日があって、19年目をむかえましたけど私がどれだけうちの家内のことを知っているんだろうかと聞かれたらですね、そんなにたくさんは完ぺきには完全には知らない。私はそう思います。しかし、1年共に過ごしたことより、今19年を過ごしていますので、1年、2年、3年、10年よりはですね、うちの家内のことを知っています。これはただ知識的に知るのではなくて、経験的に関係的に知っていることになります。同じ家で住みながらも相手のことを良く知らない人がいると思うんです。その理由はともに時間を過ごしていないからです。

詩編34編第4節

 

34:4「わたしが主に求めたとき、主はわたしに答え、すべての恐れからわたしを助け出された。」

 

この言葉、すごいと思いませんか。私が主に何かを求めました。神様助けて下さい。今は非常に困っています。求めたときに主は私に答え、すべての恐れから私を助け出された。今まさにこの世界中、多くの方々が恐れています、おびえています。新型コロナウイルスは目には見えません。だれがその菌を持っているのかも分からないのです。目に見えないものに恐れをおぼえてしまう。私が主に求めたとき主は私に答えすべての恐れから私を助けだされた。ヨハネの手紙4章をみますと、そこにはですね。愛はすべての恐れから恐れを締め出す、と言ってます。愛です。私たちが神様の愛を知るとき私たちは恐れから恐怖心から解放されていきます。

私が神学生の時にですね、教会成長学というクラスがありました。教会成長学。それで実際教会が成長している、その教会に行って視察するように言われて、それが宿題でありましたので、私はある2万人の信徒を持っている教会に行ったんです。韓国では2万人信徒を持っている教会はいっぱいありますけど。一つの教会に毎週2万人以上の方々が集まるんです。そこで主任牧師に出会おうと思いましたけど、主任牧師には出会えませんでした。その代わりに副牧師に、何人もいるのですけれども、一人の副牧師にですね、お会いしてインタビューしました。あなたの教会の教会成長の秘訣はなんですかと聞いたんです。そしたら彼は本棚から赤い表紙の本を出して見せてくださいました。ここに私の教会の成長の秘訣がここに書いてあります。私は聞いたんです。この本はだれが書いたんですか?私たちの教会の主任牧師が書きました。表紙が赤いですよ。真っ赤。その本のタイトルを見ましたら「火の柱」と書いてありました。「火の柱」その内容を少し見ましたら、地獄です。地獄、地獄。そしてその牧師は自慢げに話をしました。私に。私たちの主任牧師は地獄についてこの本を書きました。そして毎週地獄の説教をするのです。毎週。什一を捧げない人は地獄に落ちる。水曜日の祈祷会に来ないものは地獄に落ちる。毎週、日曜日の礼拝に来ない人は地獄に落ちる。よき行いをしない者は地獄に落ちる。時には、主任牧師はですね、夢を見るんです。夢を見て、夢の中で、ある信徒の顔を見るんですよ。そしたら礼拝説教で、こんな風に説教をします。昨日の夕べ私はだれだれさんの信徒の顔を見ました。その時、神様が百万円という数字を出してくださった。ある信徒よ、百万円献金しなさい。それを言われてですねこの人はですね、悲しむのではないんですよ。嬉しいんです、その信徒は。自分の尊敬している主任牧師の夢で神様が自分を見せてくださって、百万円という献金というもので、嬉しい。自分は確実に神様に覚えられて、自分は天国に行く。地獄行きではないんだ。そこまで話をしてくださいました。そして信徒は毎週2万人以上その教会に来るんです。なぜ、来ます?恐れ、恐れです。脅迫されているんですよ。毎週。主任牧師の言うとおりにしないと地獄に落ちるから地獄に誰も行きたくないわけです。それは神様との正しい関係なんでしょうか?

 お互いに知り合う関係なんでしょうか?夫婦関係も親子関係も恐れがあって皆さん親子関係が保てますか?夫婦関係が持てますか?違いますよ。私たちはイエス様と愛の関係で結ばれなければならないです。お互いに知り合う関係です。どうやって私たちは自分を救ってくださった神様、イエス様のことを知ることが出来るでしょうか?答えはこのみ言葉にありますね。聖書を読むこと、祈りを捧げること、イエス様と共に時間を過ごすことによって私たちはイエス様のことが分かってきます。イエス様の願いはひとりも滅びないですべての人々が救われることであります。神様は天国の入り口をわざと狭くしたのではないのです。広く開けてくださいました。誰もが入れるように。しかし、そこには一つの条件があります。イエス・キリストの血潮を取られた人だけが入るんです。イエス様によって渡された白い衣を着ている者だけがはいります。ですから、黙示録の7章を読んでみますと数えきれない群衆がそこに描かれていますけれども彼らは大きな患難を通って小羊の血によって洗い清められた白い衣を着ているものであります。私の祈りは皆さん一人一人がこの困難な時代を生き抜くことであります。この困難な時代を生き抜くためには信仰が必要なんです。その信仰はどこからえることができます?み言葉です。イエス様との深い関係の中でその信仰は深まります。ある方が私に「先生、信仰を深めるためにはどうすればよいですか?」という質問をしてくださいました。とっても良い質問だなあと思ったんです。

わあ、この人すごいなと思いました。信仰を深めるためには答えは何でしょうか?知識的にみ言葉の知識を増やす意味ではなくてイエス様との関係を深めることだとそう思います。願わくは、皆様一人一人がヨハネの黙示録14章に示されている麗しい光景に皆様が立つことであります。黙示録14章を見ますと14万4千人の姿が描かれています。これは象徴的な数字であります。大勢の方々がイエス様とともにシオンの山に立って麗しい歌をうたいます。その歌は14万4千人以外は歌えない。なぜ?経験な歌だからであります。イエス様と関係を深く持っている者だけが歌えるんです。何かを覚えてうたうんではないいです。何か暗記してうたうのではなくて経験上の歌です。イエス様との深い関係を持ってその経験を持って証しようではありませんか。そのような世の終わりの時代に私たちは生かされていますし、呼ばれています。私たちは大きな使命があります。それは主を証することであります。

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柳先生‐3月28日礼拝「勝利の歌」
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