
礼拝説教
和田 清長老「神は貧しい人たちの味方」
(31分47秒)
<引用聖句、文章>
マタイによる福音書 4章23~25節
イエスはガリラヤの全地を巡り歩いて、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病気、あらゆるわずらいをおいやしになった。そこで、その評判はシリヤ全地にひろまり、人々があらゆる病にかかっている者、すなわち、いろいろの病気と苦しみとに悩んでいる者、悪霊につかれている者、てんかん、中風の者などをイエスのところに連れてきたので、これらの人々をおいやしになった。こうして、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ及びヨルダンの向こうから、おびただしい群衆がきてイエスに従った。
マルコによる福音書 3章8節
エルサレムから、イドマヤから、更にヨルダンの向こうから、ツロ、シドンのあたりからも、おびただしい群衆が、そのなさっていることを聞いて、みもとにきた。
ルカによる福音書 6章18、19節
教を聞こうとし、また病気をなおしてもらおうとして、そこにきていた。そして汚れた霊に悩まされている者たちも、いやされた。また群衆はイエスにさわろうと努めた。それは力がイエスの内から出て、みんなの者を次々にいやしたからである。
マタイによる福音書 5章1~3節
イエスはこの群衆を見て、山に登り、座につかれると、弟子たちがみもとに近寄ってきた。 そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて言われた。「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。
出エジプト記 19章20節
主はシナイ山の頂に下られた。そして主がモーセを山の頂に召されたので、モーセは登った。
マタイによる福音書 5章3節
「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。
ルカによる福音書 6章 20節
そのとき、イエスは目をあげ、弟子たちを見て言われた、「あなたがた貧しい人たちは、さいわいだ。神の国はあなたがたのものである。
ヨハネによる福音書 4章20節
わたしたちの先祖は、この山で礼拝をしたのですが、あなたがたは礼拝すべき場所は、エルサレムにあると言っています」。
ルカによる福音書 18章9~14節
自分を義人だと自任して他人を見下げている人たちに対して、イエスはまたこの譬をお話しになった。「ふたりの人が祈るために宮に上った。そのひとりはパリサイ人であり、もうひとりは取税人であった。パリサイ人は立って、ひとりでこう祈った、『神よ、わたしはほかの人たちのような貪欲な者、不正な者、姦淫をする者ではなく、また、この取税人のような人間でもないことを感謝します。わたしは一週に二度断食しており、全収入の十分の一をささげています』。ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天にむけようともしないで、胸を打ちながら言った、『神様、罪人のわたしをおゆるしください』と。あなたがたに言っておく。神に義とされて自分の家に帰ったのは、この取税人であって、あのパリサイ人ではなかった。おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」。
ヨハネの黙示録 22章1~5節
御使はまた、水晶のように輝いているいのちの水の川をわたしに見せてくれた。この川は、神と小羊との御座から出て、都の大通りの中央を流れている。川の両側にはいのちの木があって、十二種の実を結び、その実は毎月みのり、その木の葉は諸国民をいやす。のろわるべきものは、もはや何ひとつない。神と小羊との御座は都の中にあり、その僕たちは彼を礼拝し、御顔を仰ぎ見るのである。彼らの額には、御名がしるされている。夜は、もはやない。あかりも太陽の光も、いらない。主なる神が彼らを照し、そして、彼らは世々限りなく支配する。
『希望への光』1127ページ
心の貧しさを深く感じ、自分のうちに何もよいものがないと感じるすべての者は、イエスを見上げることによって、義と力を見いだすことができる。イエスは、「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい」と言われる(マタイ11:28)。イエスは、あなたの貧しさを、主のめぐみの富と交換するように仰せになる。わたしたちは、神の愛を受けるにふさわしくない。しかしわたしたちの保証人であるキリストは、それにふさわしく、また、彼に来るすべての者を豊かに救うことがおできになるのである。あなたの過去の経験がどうであろうと、また、現在の状況はどんなに落胆させるものであっても、弱く、力なく、気落ちしたままでイエスに来るならば、わたしたちの憐れみ深い救い主は、遠くからあなたを迎え、その愛のみ腕をあなたにのばし、その義の衣をあなたに着せられる。イエスは、ご自身の品性の白い衣をわたしたちに着せて、父なる神に紹介される。イエスは、父のみ前でわたしたちために嘆願される。そして、わたしはすでに罪人の代わりになりました。このわがままな子をごらんにならないで、わたしを見てくださいと言われる。もしサタンがわたしたちの罪を責め、わたしたちを彼の餌食であると主張して、大声で訴えても、キリストの血はより大きな力をもって嘆願するのである。「人はわたしについて言う、『正義と力とは主にのみある』と。・・・イスラエルの子孫は皆主によって勝ち誇ることができる」(イザヤ45:24、25)。