救いの計画

聖書に「罪の支払う報酬は死である」(ローマ人への手紙6章23節)とあるように、罪の結果人間は死ぬものとなりました。アダムとエバの子孫も、同じ道を歩みました。そして死は人類共通の運命となったのです。
 
神は死に定められた人間が、再び生きることができるために、救いの計画を立ててくださいました。この計画は人間が造られる前に立てられていたのです。というのは神が人間を自由な意志をもつものとしてお造りになったとき、罪の可能性を予知されたのです。神は人間が罪を犯すことができないようにお造りになればよかったのではないかという人があります。もちろん神はそうすることもおできになりました。しかしそうなると人間は機械と同じになってしまいます。ロボットはどんなに立派なことをしても、道徳的な価値はありません。神は人間が自発的に神と人とを愛し、神に従う道を選ぶことをお望みになったのです。

1.罪とは何か


「すべて罪を犯す者は、不法を行う者である」(ヨハネの第1の手紙3章4節)。不法というのは律法を犯すということですが、この律法は神の命令、神の律法で、十戒のことです。

 

普通の人は罪人であるとは思っていません。それは国家の法律を標準にして考えるからです。しかし神の高い道徳の標準である十戒に照らしてみると、人間はみな罪人なのです。

 

「義人はいない、ひとりもいない。・・・善を行う者はいない、ひとりもいない」(ローマ人への手紙3章10、12節)。「人は罪を犯さない者はないのです(列王紀上8章46節)、「善を行い、罪を犯さない正しい人は世にいない(伝道の書7章20節)」。「もし、罪がないと言うなら、それは自分を欺くことであって、真理はわたしたちのうちにない」(∃ハネの第1の手紙1章8節)。

 

罪は私たちが意識していなくても、生活を暗くし、人間関係にもいろいろ問題を起こしてきます。

2.罪の性質

 

(1)品性の汚れ
罪を犯す前は人間は清く、神と交ることを喜びとしていました。しかし罪を犯した人間について聖書には、「われわれはみな汚れた人のようになり、われわれの正しい行いは、ことごとく汚れた衣のようである」(イザヤ書64章6節)とあり、すべての人間の行為は罪によって汚れています。たとえ私たちが正しい行いをしたと思っても、もしそれを誇りに思ったり、人と比較して傲慢になったりすれば、神の前には汚れたものとなるのです。そこで神は、「あなたがたは身を洗って、清くなり、わたしの目の前からあなたがたの悪い行いを除き、悪を行うことをやめ」(イザヤ書1章16節)とすすめておいでになります。

 

(2)心の病気
キリストは「健康な人には医者はいらない。いるのは病人である。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」(ル力による福音書5章31、32節)といわれました。罪は心の病気です。罪は人間が神のことを悟ることができないようにします。イザヤは「この民の心は鈍くなり、その耳は聞えにくく、その目は閉じている(マタイによる福音書13章15節)といいました。

 

(3)支配力
 「イエスは彼らに答えられた、『よくよくあなたがたに言っておく。すべて罪を犯す者は罪の奴隷である」(ヨハネによる福音書8章34節)。「おおよそ、人は征服者の奴隷となるものである」(ペテロの第2の手紙2章19節)。罪にまけた人間は、罪の力に支配されています。自分の力で罪の支配からのがれることはできません。罪は私たちを支配する力となっているのです。

 

(4)罪の法則
 「善をしようとする意志は、自分にあるが、それをする力がないからである。すなわち、わたしの欲している善はしないで、欲していない悪は、これを行っている。もし、欲しないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である」。「わたしは、内なる人としては神の律法を喜んでいるが、わたしの肢体には別の律法があって、わたしの心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、わたしをとりこにしているのを見る」(ローマ人への手紙7章18-20節、22、23節)。ここでは罪は、人間のうちにある悪への根強い傾向としてとらえられています。

 3.救いの計画

 

神の律法を犯して死に定められた人間をいかにして救うかは難しい問題でした。律法を変更するか、なくしてしまうことができれば、刑罰としての死もなくなりますが、神の律法は神の性質の反映であり、宇宙の精神的秩序の土台ですから、これをかえることはできません。

 

そこで人間を救うためには、だれかが人間の代わりに死んでその刑罰をうけなければなりません。大きな借金をして、支払うことができず、裁判にかけられたとき、もし金持ちの友だちがいて、その人の代わりに借金を払ってくれれば、罰をのがれることができるように、罪を犯した人間の代わりに、だれかがその刑罰である死を受けてくれれば、人間は救われるのです。

 

しかし人間の代わりになって、神の律法の要求する死という刑罰を受けることができるのは、神と等しい方でなければなりません。なぜならば神の律法は、神と同様に神聖なものであり、また人間の身代わりになることができるのは全く罪のない方でなければならないからです。
 
聖書の中で、神とよばれているのは、父なる神、子なる神、聖霊の神です。これらの神は各々人格をもち、全く一つの目的をもって、完全に調和してこの宇宙を支配し、働いておいでになります。創世記1章にでている神という言葉は複数形がつかってあり、父なる神、子なる神、聖霊の神が協力して一つの人格のごとく活動して、創造のわざが行われたことがわかります。もっとも神についてのこのような説明は、理性的に考えても理解できないことで、聖書の言葉を信じるほかはありません。神の救いの計画は子なる神が人間の代わりに死ぬことによって、人間を死から救うというものでした。この計画は、父なる神にとっても、子なる神にとっても大きな犠牲でした。

 

全宇宙の支配者が、地球という全宇宙にくらべれば、ちりよりも小さい世界に住む人間のために、地上にくだって、死という刑罰をおうけになるということは、考えることもできないことでした。しかし愛はいかなる犠牲をもいとわないのです。

 

ヨハネによる福音書3章16節はその愛を語っています。「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」。 
 
神はこの救いの計画をアダムにお告げになりました。その後、時がたつにつれて、そのくわしいことを、預言者を通して次々にお示しになりました。旧約聖書を学ぶとそのことがわかります。 

この計画によれば、子なる神は人のかたちをとって、人の間に住み、人間の身代わりとして死なれるはずでした。イザヤ書53章にその預言があります。「まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。われわれはみな羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った。主はわれわれすべての者の不義を、彼の上におかれた」。(4-6節)
 
神の子が地上においでになる時については、ダニエル書にくわしく預言されていました。そこに、救い主は西暦27年に公の働きを始め、3年半の後、人間の身代わりとして生命をお与えになることが示されていたのです。(ダニエル書9章25-27節)。また神の子が人間のからだをとってお生まれになる場所についても、「しかしベツレヘム・エフラタよ、あなたはユダの氏族のうちで小さい者だが、イスラエルを治める者があなたのうちからわたしのために出る。その出るのは昔から、いにしえの日からである。(ミカ書5章2節)と告げられたのです。

 

そのほか旧約聖書に、この救い主、神の子について、多くの預言が与えられ、救い主はユダヤ人からでることも預言されていたので、救い主の出現はユダヤ人の民族的待望となっていました。
 
そしてついに時が満ちた時、ユダヤのベツレヘムに降誕なさったのがイエス・キリストであったのです。彼は救い主といわれているように、人間救済の計画における中心です。キリストは優れた宗教家であると考えている人もいますが、それだけでなく、神の子であったのです。

 

このようにして救いの道が開かれました。人間に希望が与えられたのです。神の救いの計画は完全なものです。人間を死より解放し永遠の生命を与えるだけでなく、罪によって変化したすべての状態を、はじめの状態に回復してくださいます。
 

罪におちいって、悪への傾向をもつようになった人間も、はじめ創造された時のようになって、無限の成長を約束されます。罪によって汚染された自然界も再びつくりかえられて、はじめの状態にかえります。人間は神とのはじめの関係にかえり、愛と平和の中にいつも喜びと希望のある生活にはいります。創造者である神は、再び人をきよいものと創造なさることができるのです。

4.アブラハムの信仰


創世記22章にユダヤ人の祖先アブラハムについての非常に劇的な経験が記されています。聖書をお持ちの方は全部読んでいただきたいと思いますが、これはアブラハムの信仰の試練でした。

 

アブラハムには晩年になって奇跡的に与えられた一人息子イサクがいました。イサクは神の特別な祝福を受け、その子孫をとおして神の救いの計画が実現される約束が与えられていました。
 
ところがある日アブラハムは、「あなたの子、あなたの愛するひとり子イサクを連れて・・・・彼を燔祭(はんさい)としてささげなさい」(創世記22章2節)という命令を神より受けました。

 

燔祭というのは牛や羊を殺して神にささげていたのですが、この時神はイサクをささげよといわれたのです。神の律法は、「あなたは殺してはならない」と命じています。アブラハムには神の命令の意味がわかりませんでした。

 

また一人息子を殺すことは、親の気持ちとしてできないことでした。間違いではないかとも思ってみましたが、神の声は明らかでした。彼はついに決心して行動にうつりました。イサクをつれて燔祭をささげるために指定された場所に出発したのです。それはモリヤという山でした。

 

たきぎをイサクが背負い、父は刃物と火をもって山をのぼりはじめた時、イサクは「父よ、・・・・火とたきぎとはありますが、燔祭の小羊はどこにありますか」とたずねました。この言葉は父の心をするどく刺しました。アブラハムは「子よ、神みずから播祭の小羊を備えてくださるであろう」と答えました。

いよいよ山頂についてアブラハムは震える声で、神の命令をつたえました。イサクはこれを聞いておどろき、またおそれました。しかしイサクは父を信頼していました。また神の言葉に服従することを幼い時から学んでいたのですぐ自分の生命を神にささげる決心をしました。

 

そして既に老齢に達した父の弱々しい手を助けて、綱で自分を祭壇にしばりつけたのです。いよいよ最後の言葉が語られ、最後の抱擁が終わって、父が刃物をふりあげた時、突然彼の手はとどめられました。天から、「わらべを手にかけてはならない。また何も彼にしてはならない。あなたの子、あなたのひとり子をさえ、わたしのために惜しまないので、あなたが神を恐れる者であることをわたしは今知ったという声が聞こえました。アブラハムが後ろをみると1頭の雄羊が角をやぶに掛けているのを発見し、これをとって神にささげました。彼は喜びと感謝にあふれて、その場所をアドナイ・エレ(主は備えられる)と名づけました。

 

アブラハムは、神のすべての要求は公正で間違いのないものであることを信じて文字どおり従いました。神はそのような信仰をお喜びになるのです。アブラハムはこの経験を通して、神がそのひとり子を人間のために死に渡されたことが、何を意味するかを知りました。「ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたかたが、どうして、御子のみならず万物をも賜わらないことがあろうか(ロ-マ人への手紙8章32節)。神の子を人間にお与えになったことは、神の無限の愛とあわれみの証拠です。

 

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