人間の回復

はじめ神のかたちにかたどって造られた人間は、平均のとれた心と、高い能力を与えられていました。しかし神に反抗し、自分の考えにしたがって生きようとして、神をはなれ、罪の道にはいりました。その結果は滅びです。

 

愛の神は、このような人間を滅びより救う計画をお立てになりました。では人間はどうすればこの救いを自分のものにすることができるのでしょうか。人間の救いは、教育や意志の鍛錬とか修養では得られません。聖書は心が全く新しくされて、神と完全に調和する道を示しています。

 

これは個人の経験となることが大切ですから、聖書の言葉を一つ一つ実行して、心の中に起る変化を体験していただきたいと思います。

1.放蕩息子のたとえ


キリストがお語りになった放蕩息子のたとえは、救いへの段階をよく示しています。「ある人に、ふたりのむすこがあった。ところが、弟が父親に言った、『父よ、あなたの財産のうちでわたしがいただく分をください』。そこで、父はその身代をふたりに分けてやった。それから幾日もたたないうちに、弟は自分のものを全部とりまとめて遠い所へ行き、そこで放蕩に身を持ちくずして財産を使い果した。何もかも浪費してしまったのち、その地方にひどいききんがあったので、彼は食べることにも窮しはじめた。そこで、その地方のある住民のところに行って身を寄せたところが、その人は彼を畑にやって豚を飼わせた。彼は、豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいと思うほどであったが、何もくれる人はなかった。そこで彼は本心に立ちかえって言った、『父のところには食物のあり余っている雇人が大ぜいいるのに、わたしはここで飢えて死のうとしている。立って、父のところへ帰って、こう言おう、父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。もう、あなたのむすこと呼ばれる資格はありません。どうぞ、雇人のひとり同様にしてください』。そこで立って、父のところへ出かけた。まだ遠く離れていたのに、父は彼をみとめ、衰れに思って走り寄り、その首をだいて接吻した。むすこは父に言った、『父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。もうあなたのむすこと呼ばれる資格はありません』。しかし父は僕たちに言いつけた、『さあ、早く、最上の着物を出してきてこの子に着せ、指輸を手にはめ、はきものを足にはかせなさい。…』それから祝宴がはじまった(ル力による福音書15章11-24節)。

 

このたとえ話は、ある大きな邸宅における、父と子の会話にはじまっています。この弟は平和な秩序だった父の家の生活にあきて、ちがった世界を求めはじめていたのです。彼は自由に自分の好きなことができる世界を考えました。そしてその計画を実行するために、財産の分け前を要求したのです。このたとえの父は神をあらわしています。弟は人間の姿です。初め人間は神とともにすみ、神は人間の父であったのです。しかし人間は神にしたがって生活することに満足せず、自分が自由にふるまうことができる世界を求めました。この弟の行動に人間がたどった道がえがかれています。

弟は自分に与えられた財産をあつめて、遠い国へ旅立ちました。遠い国-そこは、いわゆる自由の世界であり、この世の一見はなやかにみえる生活の場で、そこにはあらゆる虚偽と罪悪がありました。それは神のもとから遠くはなれた罪の世界だったのです。

 

弟はそこで放蕩にその財産を散らしてしまいました。自分の思うとおりの生活をして、全く自由にふるまったのですが、ほんとうに幸福ではありませんでした。財産をことごとく費やした時に、その国に大きなききんが起こりました。放蕩息子は乏しさを感じはじめました。彼はやむを得ずある人のもとに行って豚を飼うことにしました。豚飼いはユダヤ人がいちばんいやしんでいた職業です。

 

はなやかな夢をみて家を出た青年のさっそうたる姿は、もうどこにもありませんでした。自己を中心とした生活は、やがて自己を保存することすらできなくなります。その生活は神に対しても、人間に対しても全くの浪費となるのです。

2.救いの段階
 

(1)罪を認めること
このたとえの青年は家を出る時、自分は悪いことをしているとは思いませんでした。自分のしたいことをするということだけを考えて、家に対する責任も、父に対する感謝も忘れていました。今、豚飼いになって生きる道を開こうとしたのですが、生活の困窮からのがれることはできませんでした。全くゆきづまってはじめて彼は自分を反省しました。そして「わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました」といいました。救いに至る第一歩は自分が罪人であることを認めることです。十戒にてらして自分の内的生活、外的生活を反省するとき、罪を認めることができます。

(2)悔い改め
この放蕩息子は窮地においこまれたとき、自分のみじめさを思うとともに、父の愛を思いおこしました。父に申しわけないと思い、自分の罪をかなしみ、それからはなれる決心をしました。これを悔い改めといいます。ほんとうの悔い改めは、罪に対するかなしみとそれからはなれることを意味します。罪そのものをかなしむのでなく、罪の結果をおそれて、失敗したと思うだけでは、ほんとうの悔い改めではありません。人間が十字架を通してあらわされた神の愛を悟るときにほんとうの悔い改めができます。
 
キリストは「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう」(マタイによる福音書11章28節)といわれました。キリストは信仰生活のすべての助けを与えてくださいます。ほんとうに悔い改めることも、キリストの助けによってできるのです。そのことについて聖書は「そして神は、イスラエルに悔い改めと罪の赦しを与えるために、このイエスを君とし、救い主として、ご自分の右に上げられました」(使徒行伝5章31節、新改訳)と述ベています。悔い改めは罪のゆるしの前にきますが、悔い改めるまではキリストのもとに行かれないというのではなく、キリストのもとに行って、その生涯と十字架をながめる時、神の愛を悟ることができ、ほんとうの悔い改めに導かれるのです。

(3)告白
放蕩息子は、父のところに行って罪を告白しました。「その罪を隠す者は栄えることがない、言い表わしてこれを離れる者は、あわれみをうける」(箴言28章13節)。告白の仕方ですが、すべての罪は神に対してのものですから、神に告白しなければなりません。しかしその罪が人に迷惑を及ぼしている場合は、その人に対しても告白すべきです。また一般に広く知れわたっている場合は、公に告白しなければなりません。しかし関係のない人に告白する必要はないのです。罪の悔い改めと告白は、ばく然としたものではなく、一つ一つの罪について具体的になされなければなりません。
 

イスラエルの王ダビデは「わたしが自分の罪を言いあらわさなかった時は、ひねもす苦しみうめいたので、わたしの骨はふるび衰えた」(詩篇32篇3節)と自分の体験を語っていますが、私たちも罪をかくさないで、一つ一つ処理すればすがすがしい気持ちになることができます。しかし告白は口だけでなく、生活の改変を伴わなければなりません。

 

(4)信仰
以上の段階をへて、ひとり子キリストを十字架の死にわたすほど私たちを愛してくださった神の愛を悟り、神に従うことを決心し、イエス・キリストの身代わリの死を信じ、キリストを自分自身の救い主として受けいれるのです。「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネによる福音書3章16節)。またどんな罪でもゆるしてくださる聖書の約束を信じることです。「自分の罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて本心に立ちかえりなさい」(使徒行伝3章19節)。「もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる」(ヨハネの第1の手紙1章9節)。こうしてすべての罪が許され、私たちは神にうけいれられて、心に大きな平安と喜びがくるのです。

3.信仰による義
 

初期の教会の有力な指導者であったパウロは、キリストによって私たちの罪がゆるされ、神の前に正しいものとして受けいれられることについて、「すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである」(ローマ人への手紙3章23、24節)といいました。また「しかるに、あわれみに富む神は、わたしたちを愛して下さったその大きな愛をもって、罪過によって死んでいたわたしたちを、キリストと共に生かし…。あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。決して行いによるのではない。それは、だれも誇ることがないためなのである」(エペソ人への手紙2章4-9節)と述べています。
 
救いはキリストの十字架による賜物で、全く神の恵みによって与えられるもので、私たちが善行をつんで得るものではなく、神が一方的にそなえてくださるものです。私たちはただ信仰の手をのべて、この賜物を受けとるだけでよいのです。これはなんという大きな恵みでしよう。この救いのおとずれを聖書は福音とよんでいます。この福音によって私たちは、神の前に全く罪のないものとして立つことができ、永遠のほろびをのがれることができるのです。救いは人間の行為にはよらないことを示すパリサイ人と取税人のたとえが、ルカによる福音書18章10節から14節までにでています。

 

「ふたりの人が祈るために宮に上った。そのひとりはパリサイ人であり、もうひとりは取税人であった。パリサイ人は立って、ひとりでこう祈った。『神よ、わたしはほかの人たちのような貪欲な者、不正な者、姦淫をする者ではなく、また、この取税人のような人間でもないことを感謝します。わたしは1週に2度断食しており、全収入の十分の一をささげています』。ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天にむけようともしないで、胸を打ちながら言った、『神様、罪人のわたしをおゆるしください』と。あなたがたに言っておく。神に義とされて自分の家に帰ったのは、この取税人であって、あのパリサイ人ではなかった。おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」。
 
パリサイ人は当時の宗教家で、善行をつんで救いを得ようとしていました。一方取税人は税金を集めてローマ政府におさめる役でしたが、いろいろな不正もやっていたので人々から軽べつされていました。それでも彼がほんとうに悔い改めて罪のゆるしを求めた時、神は彼を正しい者として受けいれてくださったのです。これはキリストの十宇架のあがないによるのです。
 

放蕩息子のたとえにかえってみますと、息子を迎えた父の姿は、罪を悔い改める罪人を神がいかにあつかってくださるかを示しています。「まだ遠く離れていたのに、父は彼をみとめ、哀れに思って走り寄り、その首をだいて接吻した」とあります。
 

息子を迎えた父は、「最上の着物を出してきてこの子に着せ」たのは、信仰によって与えられる義をあらわしています。放蕩息子が罪をゆるされたばかりでなく、子として受けいれられたように、私たちも正しいものと認められて、神の家族として受けいれられるのです。このことを義と認められるといいます。ここに神の大きな愛があり、キリストの弟子ヨハネはこの愛について「わたしたちが神の子と呼ばれるためには、どんなに大きな愛を父から賜わったことか、よく考えてみなさい。わたしたちは、すでに神の子なのである」(ヨハネの第1の手紙3章1節)と記しています。

4.成長


悔い改めて罪をゆるされ新しい生活にはいることを聖書は誕生にたとえ、また種が芽を出すことにたとえています。ここに神によっての新しい生命がはじまります。その生命は成長し、私たちはだんだんキリストの姿に近づいていきます。
 

キリストの弟子のヨハネは愛の使徒とよばれ、キリストの姿を最もよく反映した弟子でしたが、彼ははじめ、利己的で、名誉心が強く、衝動的で短気でした。しかしキリストと共に生活して、その品性をみるにつれて、自分の欠点がわかってきました。キリストのすばらしい品性をみて、これに印象づけられ、動かされて、だんだん性格が変わっていったのです。キリストに対する愛がこの変化の原動力になりました。
 
キリストは私たちの罪をゆるしてくださるばかりでなく、自分の意志を全くキリストに服従させるならば、私たちをきよめ、罪に勝利する力を与えてくださいます。キリストに心をささげることによって罪の支配からのがれ、私たちのうちにある罪の法則から解放されるのです。こうして私たちは、キリストの助けによって、神の律法を守る生活にはいり、品性は成長していきます。このような成長を聖化といいます。義と認められるのは悔い改めた瞬問で聖化はその後の一生涯の仕事です。

 

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